1. 戦後の生花市場の復興と発達
昭和20年、終戦とともに作付統制令などが廃止されましたが、太平洋戦争によって各地の都市が空襲で焼かれてしまい、終戦後しばらく、日本の農業は食糧増産をかけ声のもと、花き生産の復活はゆっくりしたものでした。
一方、連合国軍(GHQ)が駐留した地域では連合国軍向けの花き需要が生まれ、それとともにブーケを初めとした米国風のフラワーアレンジメントが導入され、日本人の生活習慣に根付くきっかけになりました。
昭和20年代には戦前に生まれた生花市場の多くが業務を再開するとともに、上野生花や立川生花、仙台生花、岡山生花、青山生花、ヤマヱ生花などが創業を開始しています。
しかし、20年代前半は十分な花卉生産はなく、山採りの草花や切り枝が取引の主流であり、フラワーアレンジというよりも生け花向けや仏事向けの需要が中心でした。
一方、バラやカーネーション、洋ランなどは特に少なく、カーネーションの品種’コーラル’も当初は1本の花から花弁を1枚1枚解し、それを組み直して2本にして使ったという逸話が残っており、施設栽培の花は特に高値で取り引きされていました。
このため、戦前に施設を利用していた生産者は、戦後になると急速にガラス温室を立て直していきました。
また、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争が、日本の経済を立ち直らせるきっかけとなり、また多くの米兵が日本に来たことも花の需要を拡大させることになりました。
2. 鉢物専門市場の台頭
鉢物専門市場が誕生するのは、昭和30年前後から昭和45年くらいまでが中心です。
切り花がGHQ向けの需要や仏事向けの需要を背景に、生産や流通が戦後間もなく復活していったのに対して鉢物の必需性は小さく、このことがこのような遅れとなって現れたのでしょう。
とは言いながらも、20年代後半には鉢物消費も徐々に上向いていったようです。
昭和27年には東京都西部花卉農協(荻窪園芸市場)が創業を開始し、それに刺激されるように昭和30年に久留米花卉園芸市場がスタートしています。後者は「花卉園芸市場」というように切り花と鉢物を扱う市場ですが、前者は完全なる鉢物専門市場です。
鉢物市場の誕生におけるもうひとつの流れがあります。それは観葉植物を中心にしたものです。
観葉植物は洋ランと同じく、戦前は一部の富裕な人たちに楽しまれる植物でしたが、その時代に、すでに貸し植木業者が観葉植物を扱っていました。
そもそも、観葉植物は明治、大正の時代までは観賞植物と呼んでいました。
大正の終わり頃、日本橋にあるフルーツパーラー「千疋屋」のサロンで観葉植物と呼んだのが最初ですが、その前後には観葉植物の生産・供給が始まり、鹿児島県の指宿市周辺や八丈島などに当初の産地が生まれています。
3. 卸売市場法と中央卸売市場
最初に生花市場が生まれたきっかけは、関東大震災と中央卸売市場法の施行であると前記しました。ですが、その中央卸売市場法は大正7年の米騒動の反省をもとに生まれ、生鮮食料品の安定供給を目途に制定されたものであり、前記のように花き類は対象外とされていました。
その法律は戦後も生き続けていましたが、昭和46年に改正され、新たに卸売市場法として公布されました。主な改正点は、地方自治体が開設する中央卸売市場に加えて、私企業や各種団体が開設する「地方卸売市場」と一定規模未満の「規模未満市場」という分類をもうけ、様々なタイプの市場を市場法の管轄下に置こうとしたことです。
また、同市場法では花き類を取扱品目に加えました。その結果、私企業や専門農協などによる従来の花き市場は、昭和49年に地方卸売市場を名乗るようになりました。ちなみに、その数は235社に及んだのです。
市場法改正の目途には、もうひとつ、市場の再整備がありました。
そのため、5年ごとに「卸売市場整備計画」を策定し、それに従った市場整備が計画されていきました。
青果市場などで中央卸売市場の再整備を計画する一方で、花き市場においては、地方卸売市場を統廃合し、中央卸売市場に整備する計画が策定されていきます。
4. 戦後の鉢物市場
戦後になると、愛知県豊橋市を周辺に、施設園芸による観葉植物生産が増え始めています。
前出のヤマヱ生花では、昭和20年代後半より、ひと月に1回、パーム大市を開催しましたが、そこでは八丈島などから入荷するヤシ類の根巻きものに混じって、ポトスやハナキリンなどが取り引きされていました。
その取引では生産者が親木として購入するケースが多く、当初は高値で取り引きされていましたが、それも昭和30年代に入ると大暴落することになります。
その大暴落に危機感を抱いた生産者は、一般消費者への販売に活路を見いだすべく、一致団結して日本観葉植物株式会社という鉢物専門市場を創業したのです。その会社は昭和34年に名古屋と東京に市場を開設しました。
当初は開市日に生産者が市場に詰め、観葉植物の管理方法などを説明しながら販売に努めたといわれています。同様にして、昭和37年には名古屋市に洋ラン専門の鉢物市場「日本洋蘭株式会社」が誕生し、その1年後には東京蘭葉株式会社が生まれています。ちなみに、観葉植物や洋ランが一般化するのは昭和39年の東京オリンピック以降のことです。
戦後の鉢物は、昭和 35年~40年のサボテンブームを契機に大衆化の道を歩み始めます。
サボテンに続いてアナナスやカンノンチク、サツキのブームが訪れ、昭和50年代には観葉植物がグリーンインテリアとしてもてはやされました。
また、ギフトに花を贈ることは昭和40年代以降に一般化していきますが、昭和50年代には観葉植物がサマーギフトに利用され、高嶺の花として知られた洋ランも、組織培養が普及した昭和50年代に大量供給されるようになり、ギフト需要を対象に急速に普及していきます。この結果、鉢物の消費は昭和40年代~50年代に大きく拡大し、それとともに鉢物専門市場もその地位を確立していきました。
一方、鉢物は当初生花市場で販売されていましたが、生花市場での扱いはほとんど伸びず、花き市場は生花市場と鉢物市場の、まったく異質な2タイプに分化することになりました。
5. 花き市場の整備、統廃合
昭和48年に卸売市場施行令が公布されると各地の中央卸売市場に花き部が併設されていくことになります。
その先陣を切ったのは、仙台市中央卸売市場花き部と横浜市中央卸売市場南部市場花き部です。いずれも、昭和48年に営業を開始しました。それ以降、神戸市(昭和49年)、広島市(昭和56年)、川崎市北部(昭和57年)、岡山市(昭和58年)、高松市(昭和60年)など、各地の主要都市において中央卸売市場が開場していきます。しかし、市場流通に劇的な変化をもたらすことになったのは、昭和63年以降に開設された東京都中央卸売市場です。
第6次卸売市場整備計画をみると、従来、都内にある41の花き市場を、23区内の5カ所と多摩地区の、計6つの中央卸売市場に整備、統廃合するべく計画しています。
市場規模を大型化することで、集荷力を強化し、供給や価格の安定を目指そうというものですが、その第一号として北足立市場(昭和63年)がオープンし、それ以降、大田市場(平成2年)、板橋市場(平成5年)、葛西市場(平成7年)、世田谷市場(平成13年)と続いています。
多摩地区については適地が見つからず計画は中止されていますが、7社8市場がふたつの卸売会社に統廃合して入場した大田市場花き部は東洋一の取扱規模を誇ることになり、それ以降、大規模流通の時代に突入しました。
東京都において市場整備が進む一方で、名古屋や大阪においても市場整備が進みましたが、この2地域にでは、中央卸売市場として整備する手法を選ばず、地方卸売市場のまま整備統廃合が進みました。
まず、大阪においては、大阪府と卸売業者などが出資する第三セクターの管理団体を作り、そこが開設した卸売市場に卸売会社が入場する形をとって、市場整備を進めました。
すなわち、大阪鶴見花き地方卸売市場は大阪府と大阪市、業界団体などが出資する大阪鶴見フラワーセンターが開設した市場であり、大阪泉大津花き地方卸売市場は大阪府と泉大津市などが出資する大阪泉大津フラワーセンターが開設する市場です。
一方、名古屋地区では、生花市場の整備は進まずにいるものの、鉢物市場については卸売会社や運送業者などが事業協同組合を作り、そこが開設した市場に統合した卸売会社が入場し、豊明花き地方卸売市場が生まれました。
現在、中央卸売市場の22市場に花き部が開設され、そこに入場する花きの卸売会社は30社に届こうとしています。また、年商100億円を超える卸売会社が約10社生まれているように、市場の統廃合をともなう市場整備によって、市場の大型化が急速に進みました。