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FAJの歴史

花き市場の歴史

CHAPTER 1 – 前史 (~明治時代)

1.江戸時代以前の花き産業

生け花のルーツは、仏教伝来とともに渡来した三具足に求めることができるといわれています。
三具足とは、仏前に供える華瓶(けびょう)・燭台および香炉の3点セットのこと。我が国の花卉栽培は、この「華瓶」に飾る花として始まったと考えられています。「華瓶」が独立して立花となり、生け花を生んだのです。
ウメなどは奈良時代から栽培され、また平安時代には白川女といわれる人たちが花を売り歩いていたようです。

2. 江戸時代の園芸文化

花き産業がそれなりに確立してくるのは江戸時代に入ってからになります。
戦国時代に確立していった茶道や華道は江戸時代に入って各々の職能集団を生み、彼らは武家屋敷などに花を持ち込みながら教え歩いたのだとか。家庭教師が教材を持ち込み、その代価を求めながら技術を広めたのです。
それはやがて都市近郊の生産者、都市部の花問屋、花問屋から花を仕入れて売り歩く花売りのように業種の分化を生み、花の流通が成立していくことになります。
また、江戸時代は元禄年間(1688年~1704年)、文化・文政年間(1804年~1830年)の平和な時代に園芸の大きな花を咲かせています。
江戸幕府の歴代の将軍が稀代の花好きだったことや大名屋敷などに珍しい植物を植えることが広がったこと、また、鎖国が長く続いて国情が安定したことなどが江戸の園芸文化を発達させたといわれています。
ツバキやツツジなどに多くの品種が生まれ、タチバナやマンリョウなどの斑入りを楽しむもの、キクやアサガオなど花の美しさやその変化を競うものなど、その楽しみ方も様々でした。
そして、このような園芸ブームは植木の生産、販売業者を育て、植木業者が集まる産地を生みました。現在の巣鴨周辺などがその代表的な地域です。
鉢植えで楽しむようになったのも江戸時代のことといわれています。
常滑で素焼き鉢を焼くようになって、それが普及したのがこの時代であり、江戸末期の植木産地には鉢植えのサボテンやアロエなどが店頭に並び、販売されていたといわれます。
このように、江戸時代の鉢物は植木生産から派生するようにして誕生し、生産直売や生産者が引き売りするまで発達しますが、切り花のように業態分化や流通の発達は後代に譲ることになります。

3. 明治初期の花き流通

明治時代に入ると、問屋や小売店などの産業の分化が急速に進んでいきます。
明治の初めの頃には隅田川河口付近の通称、花河岸と呼ばれるあたりに数件の花問屋があり、そこを経由して切り花が売られていたといわれます。その花問屋は今に続くものもありますが、花問屋は各々が売り子を抱え、花売りは問屋が指定する辻を売り歩いていました。
このように、当時の花問屋は西新井、堀切の生産者が持ち込んだ花を卸売りする業者であるとともに、花売り達の営業地域を仕切る元締め的な機能もありました。
同じように大阪や神戸、横浜でも明治の初め頃には花問屋が生まれ、花の小売店も既にあったといわれています。
当時の切り花は供花や生け花のお稽古用が中心であり、草ものの切り花に加えて枝ものが重要な商品になっていました。
切り枝は周辺の山野から切り出したものであり、また草ものの切り花も生産品に加えて山採りの品が重要な商品アイテムになっていたと推測されます。

4. 球根輸出と洋種花きの輸入

横浜や神戸は外国人の居住地域になり、海外から輸入された草花が早くから販売されており、園芸の先進地になっていきます。
日本にはユリ類など園芸的に価値の高い野生植物が多く、在住の外国人の中にはそれらの球根をイギリスや米国に送り、大きな利益を得るようになりました。
そしてやがて、花き類の輸出入を行う商社が誕生します。
文久2年(1862年)に来日したイギリス人のC.クラマーが文久3年に設立したクラマー商会や、明治4年(1871年)に来日したアメリカ人のボーマーが後に創ったボーマー商会などがその代表的なものですが、彼らは日本から多くの植物を欧米に輸出し、それとともに海外から洋種花きの導入に務めました。
また、暖房付きのガラス温室などもこの時代に導入されており、在住外国人や華族、皇族などに温室が普及していきます。
明治も中頃になると横浜植木商会(現横浜植木株式会社)が花き類の輸出入を目的に設立され、新井清太郎商店などが後に続いて、その中のいくつかの会社は今に続いています。
外国人による貿易会社はやがてその役割を終えることになりますが、洋種花きや温室の普及など、彼らの力によるところが大きかったのです。
ちなみに、いまの主要な園芸植物の多くはこの時代に導入されました。輸出用のユリ根などは当初、山採りによってまかなわれましたが、輸出量が拡大するとともに球根生産が始まり、明治の終わり頃には各地に球根生産の産地が誕生しました。
テッポウユリの自生地でもある沖永良部や鹿児島県内、貿易商が集まる神奈川や、貿易商が生産を委託した千葉(房総)など、現在の主産地の多くが球根生産からスタートしています。

5. 花きの消費拡大

切り花や鉢物類の消費は、在住外国人や華族などの富裕層を中心に広がりましたが、明治時代は富国強兵政策もあってか、日本人の生活レベルは年々向上し、それとともに花の消費量も確実に拡大していきました。しかし、明治時代の花き産業は球根の輸出や種苗導入が中心であり、ガラス温室もごく一部の富裕層に普及するのみだったので、一般大衆向けの生産・供給が始まるのは大正時代を待たなければなりません。

CHAPTER 2 – 花き市場の誕生

1. 花き市場誕生の歴史

明治後期から大正時代になると各地に花問屋が誕生し、花屋さんの数も目立って増えてきました。花問屋経由の流通を変えようとする流れが生まれたのも大正時代のことです。
問屋流通は、価格形成が不明朗で、取引が不定期であり、支払いが遅いなどの欠点が指摘され、青果取引場と同じようにセリ取引主体の花き市場が必要だという認識が広がっていったのです。
その一方で、大正12年には中央卸売市場法が制定され、青果物や鮮魚などを扱う市場が政府による指導のもと、中央卸売市場として整備されていきました。その中央卸売市場法では、セリまたは入札による取引を原則とし、市場原理による価格形成を求めています。
この法律では、花き類を対象外としていますが、花き類の生産者も中央卸売市場の誕生に刺激を受け、セリ売りを主体とする市場の誕生を求めるようになっていきました。
しかし、当時の生産者は花問屋に多額の売掛があったこともあって、即、花市場を開設するようにはなりませんでした。
そのような時代に終わりを告げるきっかけを作ったのは大正12年9月1日の関東大震災です。

2. 日本で最初の花き市場

関東大震災は多くの死者を出し、東京の下町を焼け野原にしました。花問屋も多くが被災し、需要も急減してその役割を果たせなくなる一方で、生産者は販売先を失うことになりました。
そこで温室生産者が中心となってまとまり、同年の12月、銀座に「高級園芸市場組合」を設立することになったのです。
この市場は切り花や鉢物のほか、ガラス温室で生産される高級野菜を取り扱い、取引方法はセリ取引を主体にしてスタートしました。
これが日本で最初の花卉市場ですが、生産者の出資による組合としてスタートしていることは実に興味深いことです。ちなみに、市場手数料は組合員が5分、非組合員が1割でスタートしています。
この市場は多くの生産者から支持され、大正13年以降それに刺激を受けて各地に花卉市場が誕生していきました。都内では、芝生花市場に続いて千住、日本橋、神田、下谷、上野、青山、渋谷、氷川、大森などの各生花市場が生まれていき、その多くが花問屋からの転校組でした。

3. 全国へひろがる花き市場

一方、地方においても次々に生花市場が誕生しています。大正15年には横浜生花卸売市場や神戸園芸組合が立ち上がり、神戸園芸組合は昭和2年に神戸花市場(後の神戸生花卸株式会社)に変わり、昭和6年には福岡花市場も生まれています。
そして昭和15年頃までに、札幌、福島、岡山、呉、下関、久留米などの地方都市にも生花市場が誕生するまでになっていました。
さて、鉢物の生産は江戸時代までその歴史を遡ることができますが、その流通は切り花同様に生産直売や問屋流通が主体でした。
また、生花市場が誕生した関東大震災の後に鉢物専門市場がいくつか立ち上がっていますが、その大半はいずれも長く続かずに消えていったといわれています。
昭和初期の鉢物といえば、サイネリアやプリムラ・マラコイデス、シクラメンなどが中心で、その産地はいまの世田谷区から大田区にかけてと、江戸川区が中心でした。それらの産地を背景にして、江戸川区にいくつかの鉢物専門市場が誕生したといわれています。
また、大田区や世田谷区の産地を背景に誕生したのが大森園芸市場であり、唯一、この市場だけが今に血脈を残しています。
大森園芸市場は大田市場に入場した卸売会社である(株)大田花きの前身のひとつであり、その創業は昭和7年です。しかし、大森園芸市場は、その後切り花を主力に扱うようになって、やがて生花市場として発達していきました。
このように、大正時代から昭和時代にかけて各地に生花市場が誕生していますが(その多くは今に引き継がれている)、これは切り花や鉢物が広く普及し始めた結果であり、また生産と流通、小売りの業態分化が進み、産業として確立した時代であったと言えるでしょう。
ちなみに、昭和14年には全国に61市場があったといわれています。

4. 太平洋戦争前夜

昭和時代に入ると、昭和4年(1929年)に始まった世界大恐慌を契機にして、昭和6年には満州事変が勃発し、昭和12年の日中戦争を経て、年々戦時色を強め、ついに昭和16年には真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争の時代に突入していきます。
それまで順調に伸びてきた花の生産や消費は昭和16年に発令された作付禁止令(作付統制令)によって大きく後退することになります。
ガラス温室は光るので、空襲の標的にされることからすべて取り壊され、いっぽうで贅沢品、嗜好品の類は生産を制限されることとなりました。また、戦時下にあることから花を生産するものは非国民と見られましたが、その偏見は戦後しばらく続くことになります。
このように戦時色が年々強まる中で、最初の花卉市場である高級園芸市場組合も終戦を前にその歴史を閉じており、それ以外の花卉市場も大半が半ば休業を余儀なくされたのです。
昭和19年には現在の兵庫県生花株式会社が創業していますが、これなども経営が難しくなった時代に合併することで生き残りを図ろうとした結果ではないでしょうか。
しかし、贅沢品とされる花は葬儀や仏壇を飾る花でもあり、切り花の流通がまったくゼロになることはなく、いくつかの花卉市場は細々と営業を継続していました。また、同じ昭和19年には、島津忠重公爵を初代会長とする社団法人園芸文化協会が設立されています。
当時のことを知る花き業界の人たちはすでに少なくなっていますが、栽培を禁止された花の種苗を維持するために、近くの里山にこっそりと植えて管理していたとか、取り壊した温室のガラスを土に埋めておいたなど、その人たちの苦労話も多いのです。
いずれも、戦後に花の栽培を再開しようとした人たちです。

CHAPTER 3 – 花き市場の戦後史

1. 戦後の生花市場の復興と発達

昭和20年、終戦とともに作付統制令などが廃止されましたが、太平洋戦争によって各地の都市が空襲で焼かれてしまい、終戦後しばらく、日本の農業は食糧増産をかけ声のもと、花き生産の復活はゆっくりしたものでした。
一方、連合国軍(GHQ)が駐留した地域では連合国軍向けの花き需要が生まれ、それとともにブーケを初めとした米国風のフラワーアレンジメントが導入され、日本人の生活習慣に根付くきっかけになりました。
昭和20年代には戦前に生まれた生花市場の多くが業務を再開するとともに、上野生花や立川生花、仙台生花、岡山生花、青山生花、ヤマヱ生花などが創業を開始しています。
しかし、20年代前半は十分な花卉生産はなく、山採りの草花や切り枝が取引の主流であり、フラワーアレンジというよりも生け花向けや仏事向けの需要が中心でした。
一方、バラやカーネーション、洋ランなどは特に少なく、カーネーションの品種’コーラル’も当初は1本の花から花弁を1枚1枚解し、それを組み直して2本にして使ったという逸話が残っており、施設栽培の花は特に高値で取り引きされていました。
このため、戦前に施設を利用していた生産者は、戦後になると急速にガラス温室を立て直していきました。
また、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争が、日本の経済を立ち直らせるきっかけとなり、また多くの米兵が日本に来たことも花の需要を拡大させることになりました。

2. 鉢物専門市場の台頭

鉢物専門市場が誕生するのは、昭和30年前後から昭和45年くらいまでが中心です。
切り花がGHQ向けの需要や仏事向けの需要を背景に、生産や流通が戦後間もなく復活していったのに対して鉢物の必需性は小さく、このことがこのような遅れとなって現れたのでしょう。
とは言いながらも、20年代後半には鉢物消費も徐々に上向いていったようです。
昭和27年には東京都西部花卉農協(荻窪園芸市場)が創業を開始し、それに刺激されるように昭和30年に久留米花卉園芸市場がスタートしています。後者は「花卉園芸市場」というように切り花と鉢物を扱う市場ですが、前者は完全なる鉢物専門市場です。
鉢物市場の誕生におけるもうひとつの流れがあります。それは観葉植物を中心にしたものです。
観葉植物は洋ランと同じく、戦前は一部の富裕な人たちに楽しまれる植物でしたが、その時代に、すでに貸し植木業者が観葉植物を扱っていました。
そもそも、観葉植物は明治、大正の時代までは観賞植物と呼んでいました。
大正の終わり頃、日本橋にあるフルーツパーラー「千疋屋」のサロンで観葉植物と呼んだのが最初ですが、その前後には観葉植物の生産・供給が始まり、鹿児島県の指宿市周辺や八丈島などに当初の産地が生まれています。

3. 卸売市場法と中央卸売市場

最初に生花市場が生まれたきっかけは、関東大震災と中央卸売市場法の施行であると前記しました。ですが、その中央卸売市場法は大正7年の米騒動の反省をもとに生まれ、生鮮食料品の安定供給を目途に制定されたものであり、前記のように花き類は対象外とされていました。
その法律は戦後も生き続けていましたが、昭和46年に改正され、新たに卸売市場法として公布されました。主な改正点は、地方自治体が開設する中央卸売市場に加えて、私企業や各種団体が開設する「地方卸売市場」と一定規模未満の「規模未満市場」という分類をもうけ、様々なタイプの市場を市場法の管轄下に置こうとしたことです。
また、同市場法では花き類を取扱品目に加えました。その結果、私企業や専門農協などによる従来の花き市場は、昭和49年に地方卸売市場を名乗るようになりました。ちなみに、その数は235社に及んだのです。
市場法改正の目途には、もうひとつ、市場の再整備がありました。
そのため、5年ごとに「卸売市場整備計画」を策定し、それに従った市場整備が計画されていきました。
青果市場などで中央卸売市場の再整備を計画する一方で、花き市場においては、地方卸売市場を統廃合し、中央卸売市場に整備する計画が策定されていきます。

4. 戦後の鉢物市場

戦後になると、愛知県豊橋市を周辺に、施設園芸による観葉植物生産が増え始めています。
前出のヤマヱ生花では、昭和20年代後半より、ひと月に1回、パーム大市を開催しましたが、そこでは八丈島などから入荷するヤシ類の根巻きものに混じって、ポトスやハナキリンなどが取り引きされていました。
その取引では生産者が親木として購入するケースが多く、当初は高値で取り引きされていましたが、それも昭和30年代に入ると大暴落することになります。
その大暴落に危機感を抱いた生産者は、一般消費者への販売に活路を見いだすべく、一致団結して日本観葉植物株式会社という鉢物専門市場を創業したのです。その会社は昭和34年に名古屋と東京に市場を開設しました。
当初は開市日に生産者が市場に詰め、観葉植物の管理方法などを説明しながら販売に努めたといわれています。同様にして、昭和37年には名古屋市に洋ラン専門の鉢物市場「日本洋蘭株式会社」が誕生し、その1年後には東京蘭葉株式会社が生まれています。ちなみに、観葉植物や洋ランが一般化するのは昭和39年の東京オリンピック以降のことです。
戦後の鉢物は、昭和 35年~40年のサボテンブームを契機に大衆化の道を歩み始めます。
サボテンに続いてアナナスやカンノンチク、サツキのブームが訪れ、昭和50年代には観葉植物がグリーンインテリアとしてもてはやされました。
また、ギフトに花を贈ることは昭和40年代以降に一般化していきますが、昭和50年代には観葉植物がサマーギフトに利用され、高嶺の花として知られた洋ランも、組織培養が普及した昭和50年代に大量供給されるようになり、ギフト需要を対象に急速に普及していきます。この結果、鉢物の消費は昭和40年代~50年代に大きく拡大し、それとともに鉢物専門市場もその地位を確立していきました。
一方、鉢物は当初生花市場で販売されていましたが、生花市場での扱いはほとんど伸びず、花き市場は生花市場と鉢物市場の、まったく異質な2タイプに分化することになりました。

5. 花き市場の整備、統廃合

昭和48年に卸売市場施行令が公布されると各地の中央卸売市場に花き部が併設されていくことになります。
その先陣を切ったのは、仙台市中央卸売市場花き部と横浜市中央卸売市場南部市場花き部です。いずれも、昭和48年に営業を開始しました。それ以降、神戸市(昭和49年)、広島市(昭和56年)、川崎市北部(昭和57年)、岡山市(昭和58年)、高松市(昭和60年)など、各地の主要都市において中央卸売市場が開場していきます。しかし、市場流通に劇的な変化をもたらすことになったのは、昭和63年以降に開設された東京都中央卸売市場です。
第6次卸売市場整備計画をみると、従来、都内にある41の花き市場を、23区内の5カ所と多摩地区の、計6つの中央卸売市場に整備、統廃合するべく計画しています。
市場規模を大型化することで、集荷力を強化し、供給や価格の安定を目指そうというものですが、その第一号として北足立市場(昭和63年)がオープンし、それ以降、大田市場(平成2年)、板橋市場(平成5年)、葛西市場(平成7年)、世田谷市場(平成13年)と続いています。
多摩地区については適地が見つからず計画は中止されていますが、7社8市場がふたつの卸売会社に統廃合して入場した大田市場花き部は東洋一の取扱規模を誇ることになり、それ以降、大規模流通の時代に突入しました。
東京都において市場整備が進む一方で、名古屋や大阪においても市場整備が進みましたが、この2地域にでは、中央卸売市場として整備する手法を選ばず、地方卸売市場のまま整備統廃合が進みました。
まず、大阪においては、大阪府と卸売業者などが出資する第三セクターの管理団体を作り、そこが開設した卸売市場に卸売会社が入場する形をとって、市場整備を進めました。
すなわち、大阪鶴見花き地方卸売市場は大阪府と大阪市、業界団体などが出資する大阪鶴見フラワーセンターが開設した市場であり、大阪泉大津花き地方卸売市場は大阪府と泉大津市などが出資する大阪泉大津フラワーセンターが開設する市場です。
一方、名古屋地区では、生花市場の整備は進まずにいるものの、鉢物市場については卸売会社や運送業者などが事業協同組合を作り、そこが開設した市場に統合した卸売会社が入場し、豊明花き地方卸売市場が生まれました。
現在、中央卸売市場の22市場に花き部が開設され、そこに入場する花きの卸売会社は30社に届こうとしています。また、年商100億円を超える卸売会社が約10社生まれているように、市場の統廃合をともなう市場整備によって、市場の大型化が急速に進みました。

CHAPTER 4 – 市場流通の課題と将来展望

1. 取引方法の変化

中央卸売市場花き部の誕生や、それにともなう卸売業者の統廃合により、卸売業者の規模が大きくなり、流通の大型化が進展しましたが、その一方で、取引方法も最近の10年間で劇的な変化を遂げています。
平成2年に開場した大田市場では、オランダ式の機械ゼリ(ダッチオークション/時計ゼリ)が導入され、その成功によって今では10数社が機械ゼリを導入しています。
従来のセリは、セリ人が場立ちし、手や声によって値段などのやり取りを行い、競り合いによって価格が徐々に上昇し最高値を示した買参人が購入する仕組みです。
それに対して、機械ゼリではスタート価格から徐々に下がる電光表示を見ながら購入希望になった時点で手元のボタンを押し、一番初めに(高値で)ボタンを押した人が購入できる仕組みです。
その違いにより従来のセリを上げゼリ、機械ゼリを下げゼリと呼びます。
機械ゼリの導入はセリ人による判断が少なく、高値、安値の判断を電子的に処理することから公平さや公開性に優れ、またコンピュータによる制御によることから、事務処理の迅速化などに優れています。
機械ゼリが多くの人に受け入れられ、普及したのも、この様な優位性が認められたからです。
また、中央市場の誕生や市場規模の拡大は、結果的にセリ販売の比率を下げるという傾向を見せています。つまり、中央卸売市場の誕生により、切り花の世界にも仲卸が介在する流通はシェアを伸ばすことになり、いっぽうで取引量の拡大によりスーパーやホームセンターなどの量販店による大量仕入れが容易になり、市場流通においても、量販店への販売シェアが拡大することになりました。
仲卸や量販店は、青果物の市場流通で見るように、先取り(時間前取引)による品揃えを求める傾向が強く、現実、大田市場が開場して以降、大手の卸売業者では彼らによる先取りが急拡大しています。
また、取引量の拡大はセリ時間を長くする結果を招き、長すぎるセリ時間は市場価格を不安定にするなどの弊害が見られます。そのために卸売業者にとっても、セリ時間を短くする先取り(時間前取引)や事前のオーダーによる注文取引を志向する傾向があり、結果的に大手市場ほど、それらの相対取引が拡大しています。
青果物の市場流通では、セリによる販売比率が20%以下というケースさえ見られますが、大田市場花き部では切り花のセリ販売は全体の1/3にまで低下しています。同様に、鉢物の取引では注文取引が拡大する傾向に あり、セリ販売の比率は6割を切るようになってきました。
このように、首都圏の大規模市場ほどセリ販売の比率が低下し、また、近畿や中京地区の大規模市場においても首都圏ほどでないにしても、相対販売の比率が増加する傾向にあります。
一方、中小の卸売市場においてはセリ取引が中心です。
セリ販売の比率が低くなる傾向は花き類よりも青果物や水産物などで顕著化していますが、この状況は「セリ売りまたは入札」を取引の原則と定めた卸売市場法の精神に反するものとして、長らく問題視されてきました。
それを受けて、平成12年に卸売市場法の部分改正を行い、セリ売りの原則を取り外して、多様な取引を認める方向で改正されました。すなわち、セリ取引と相対取引のいずれを取引の中心に据えるか、各市場に指定できるようになったのです。
そして、東京都中央卸売市場の5市場に入場する卸売会社は、相対取引を取引の中心に据える選択をしています。

2. 進む物流の近代化

中央卸売市場の誕生や卸売業者の統廃合は、機械ゼリ以外にも様々な方面への投資を促進しています。
大田市場花き部では合計2000㎡の定温倉庫が設備されましたが、開場時から定温倉庫を設備した市場は青果市場にもなく、花き市場においても初めてのことでした。
しかし、その後に生まれた花き市場では必須の設備として導入されるようになっています。産地から市場までの輸送においても、航空便の貨物運賃が値上りしたこともあり、長距離便においては保冷車によるトラック輸送が急速に普及しています。
従来、花きの輸送は常温で行っていましたが、定温倉庫と保冷車の利用により、徐々にではありますがコールドチェーン(正しくはチルドチェーン)が普及しつつあります。また、物流関係では物流台車の利用が普及しています。
特に大田市開場当初に導入されたアルミ台車は市場内やトラック輸送に利用されるようになり、ここ10年間で3万台以上が各地の市場で利用され、産地から市場まで、市場から買参人まで商品を台車に載せて積み降ろしする「台車物流」が普及し、その利便性が認知されつつあります。
その他、大手市場の一部には、自動分荷設備が導入されています。
切り花では大阪の鶴見市場や梅田市場、東京の大田市場などに導入され、鉢物では福岡県の九州日観植物地方卸売市場に導入されていますが販売された商品がラインを流れる中で、販売先ごとに自動で分荷される仕組みです。
ちなみに、台車物流や機械ゼリなど、そのモデルはオランダの花き市場にあるものですが、自動分荷設備はオランダでも見ることができないものです。

3. 情報化の進展

インターネットの普及を始め、ここ数年の情報機器、情報システムの発展はめざましいものがありますが、その波は花き市場にも及びつつあります。
業界における情報化は、納品書や請求書の発行など、事務処理系が中心でしたが、最近はホームページなどによる情報公開が進む一方で、注文の受発注や先取りの申し込みなど、情報システムを介した取引(情報取引)の分野に進みつつあります。
明日のセリに何が入荷しているか、インターネット経由で検索でき、欲しいものがあればその場で先取りの申し込みが行われ、あるいは過去の取引を参照して注文発注をするといったシステムです。現在はいずれのシステムも試行の段階ですが、近未来には重要な取引手法になると思われます。

4. 国際化

花き類における輸入が拡大し、認知されるようになったのはここ20年ほどのことですが、1990年、大阪の鶴見緑地で「国際花と緑の博覧会」が開催された頃を境に、切り花や球根類の輸入が急増することになりました。その理由は、1990年の植物防疫法の部分改正です。
つまり、球根類における隔離検疫の条件付き免除と事前検疫制度の導入です。
事前検疫制度は、日本の検疫官が輸入相手国に常駐し、対日輸出の前に病害虫などの有無をチェックする仕組みです。
隔離検疫の条件付き免除は、従来、輸入球根は隔離圃場で一作し、病害虫のチェックを義務づけていましたが、対日輸出をしようとするものを生育中にその国の圃場でチェックし、合格したものについては隔離免疫を免除しようというものです。
この制度に対応するのは、過去も現在もオランダのみですが、そのオランダからは1990年以降に切り花と球根の輸入が急増することになりました。
特に球根においては年々増え続け、今では国内で利用される球根はその7割(金額比)がオランダ産という状態になり、国内の球根生産額はピーク時の6~7割に減少しています。
いっぽうの切り花は、’90年代前半は半ばに訪れた1ドル=80円台を目指すという円高基調を背景にして大きく伸び、特に事前検疫制度を導入したオランダからの輸入が急拡大して輸入相手国の第一位にオランダが登場することになりました。
’90年代後半は円安基調にあることと国内の消費低迷が重なり、切り花輸入額は横這い状態に陥っています。しかし、’90年代後半の輸入切り花は輸入相手国の構成に大きな変化が見られました。
輸入額第一位に躍り出たオランダからの輸入が減少する一方で、アジア各国、それも中国、台湾、韓国からの輸入が急増しています。
また、輸入される切り花も、新品種や国内生産が少ないものが中心でしたが、バラを初めとする、国内の主力品目の輸入が増える傾向が顕著になっています。すなわち、’97年頃にはインドからバラの輸入が急拡大し、年間で1千万本を超え、’98年以降は韓国からバラの輸入が増えて2000年には2千万本を超えています。
このように、従来の切り花輸入は日本のマーケットの隙間を埋めるように増えてきましたが、最近の輸入は国内生産と競合する分野に及びつつあり、市場流通を含めて、激動の時代を迎えると推測されます。

文責者 フラワーオークションジャパン 顧問 長岡 求

<参考文献>
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卸売市場法研究会編集「卸売市場法の解説」大成出版社/1987年
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